なぜセラピーをやってるの?なぜEFTをやってるの?

 
  

「なんでセラピーをやってるの?」 
「なんでEFTをやってるの?」
  
 
(私が使うセラピーのツールは、厳密にはEFTだけではないのですが、 
「身体に残っている感情のエネルギーに働きかける事」は、常に重視しています) 
 
なぜEFT(感情解放テクニック)のプラクティショナーコースをやるのか? 
 
それは、自分を制限する思い込みや、苦しい思い込み(ネガティブな投影)や、 
ネガティブな感情(トラウマを含む)から、 
フラット(ゼロ地点)に戻るために使いやすいツールだから。  
 
もう少し言うと 
 
「余分な精神的荷物を降ろして、ラクに生きていきたいから」 
(はい、実はこう見えて、我慢しがち、ため込みやすい体質なんです。笑)  

ちなみに、セラピストとしてEFTをやる理由としては 
「使いやすい・使えるツールだから」 
「(クライアントさんにビフォーアフターを)実感してもらいやすいツールだから」  
「(私の感じる感覚として)意味不明な点(納得いかない点)がないから」
です。 
(これ3つともかなり大事…)
 

 
↑このタッピングのポイントを、指でトントンと軽く叩いて、深呼吸するだけですから。 
とってもシンプルなんです。 
 
あ、もちろん、ツールは、ヒーリングなどでも良いんです。 
(コーチングでもゲシュタルトでもNLPでも占いでも良いんです。) 
占星術でもタロットでもキネシオロジーでも、 
究極、「ツール」はなんでも良いんですけどね。 
  
EFTの場合は、 
・使う道具は指二本だけ  
という、手軽さもポイント。 
 
(個人的には精油を使ったセルフケアも大好きなんですが、当たり前ですが 
精油が手元にないと…何もできないので…) 
 
私たちが「ストレス」「心の傷」を癒したり、 
過去を本当に乗り越える(統合する)ためには 
身体、というか、ボディフィールドに溜まった「ネガティブな感情」を 
流して解放してあげる必要があるから。  
 
もうね、 
「我慢する」 
「忘れる努力をする」 
「気にしない気にしないと言い聞かせる」 
「理論的に、『こうこうこうだから仕方ない』と自分を納得させる」 
「(無理やり)前向きに考えようとする」
という、幼少期から人生の前半に使っていた処世術だけでは、 
行き詰っちゃってたんですよね。 
 
どうにも、(セラピーを学ぶ前は)生き苦しかったし、 
潜在意識のセルフイメージはどん底にネガティブでした。 
 
表面的には「いや私だって普通の範囲でしょ?そこまで悪くないですよね?」 
とか思ってましたけど
内心、というか、潜在意識ではマジでどん底の自己価値でした。 
自分の事、潜在意識では 
幽霊(※)とかゴミみたいな存在(※)だと思ってたし。 
※↑後に癒しの旅路で出てくるセルフイメージ。  
  
まぁ、過去の私みたいに 
どん底セルフイメージ持ってたら 
それだけでもう、何も表面的には問題が起こっていなくても 
ちょっとした事をネガティブにとらえちゃうし 
必要以上に傷つきやすいですし 
ずっと苦しい世界観な訳ですけれども、 
 
また、そこまでのどん底自己価値…なんてのが無かったとしても、 

なにか問題が起きた時 
ツライ事があった時、
ストレスがかかった時、 
 
「苦しいネガティブな感情」が、体感として残ったままだと 
次のステップが軽やかに動けないんですよね。 
 
なので、その時生まれたネガティブな感覚や感情を 
「無理なく、自然に、フラットに戻してあげる」スキルは、 
生きやすさに繋がるというか、役に立つんです。  
 
誰かが優しくケアしてくれるのを待つのではなく 
偶然ラッキーが起こって気分が晴れるのを待つのではなく 
 
「自分で自分の感情をケア出来る」 
という感覚は、私たちに土台の安定感もくれます。 

 
 
そうやって軽やかな足取りで人生に取り組んでいけたら、ラクですよね。 
 
 
5月週末都内開催EFTプラクティショナーコース 
(こちら満席となりました。ありがとうございます!)  
少人数で行う、都内で3年ぶりのリアル開催のEFTプラクティショナーコース。 
2023年 5月13日(土)&5月14日(日)&5月21日(日)の3日間です。   
10:00~17:00 (開場9:45~) 
(開催場所は都内文京区のレンタルサロンです。お申込み&お振込みいただいた方に詳細メール致します) 
 
タイミング合う方、お待ちしております。 
 
3日間みっちり、一緒に自己愛を深めていきましょう。


絶望した後に本当の平和がやってくる

近所の公園の葉牡丹♪

【絶望した後に本当の平和がやってくる】
 
  
私は怒っていたので…
 
 
怒っている事にすら 
まったく気づかないまま  
誰にも悟らせないまま 
平気な顔をして…
 

そうやって自分さえ徹底的に騙しきって 
ずっとずっと怒っていたので 
 
 

はち切れて爆破して 
どうしようもなくなっても 
誰かに当たる事は出来ない。
 
 
それ(八つ当たりね)が出来る人を見ると 
ビックリして
コドモっぽいよね、 
と、したり顔で批判しつつ
 
 
実のところ 
羨望の眼差しで見てしまうくらいだ。
 
 

密かにずっと怒っていた時というのは  
実は 
「誰かなんとかしてくれよ」
と、願っていたんだろう。
  

めちゃくちゃ怒っているのに  
改善の為に立ち上がる事が出来ない時は 
  
 

誰かの被害に遭っている訳ではなくて
私が私を 
勝手に 
「無力」に仕立て上げている時だ。
 
 

初めて 
 
 
「あぁ 
自分でどうにかするしかないんだ」 
「誰かが何とかしてくれる訳じゃないんだ」
と分かる時というのは、
 
 
それは全く悲しい事じゃなくて
むしろ…
 
  
自分に力を取り戻す 
光のプロセスであった事に気づく。
 
 
 
無力感や 
犠牲者感や 
被害者意識の底に 
 
 
いつも眩い光がある事に気付く。
 
 
あなたも 
あの人も 
私も 
 
 
大丈夫だと分かっておこう。

私は私を、あなたはあなたを

2年前に、FBに投稿した内容ですが、こちらにも転載しておきます。 

 

私たちは子供の頃  
親に
「気持ちを受け止めて」もらっていただろうか? 
 
衣食住 
教育 
各種お世話はして貰っていたとしても
でも気持ちは受け止めて貰っていただろうか?
 
その事を思う時 
かなりの確率で私たちの多くが 
大なり小なり
「感情的ネグレクト」の傷を持っているのではないか…と思う。
 
そして同時に
「親は、子供の頃、
親の親に、気持ちを受け止めて貰っていたかな?」
 
きっと 
そんなに「それ」をして貰ってる人は多くない。
 
さあ 
私たちはどうする?
 
先祖代々の傷をどうする?
 
多分、親は悪くない。
親の親も悪くない。
 
どこから始まったかなんてわからない。
この連鎖をどうしよう?
 
私は 
私が私を抱きしめてあげようと思う。
 
それは  
いつか誰かが
自分より小さい子を抱きしめる時の糧になるだろう。
 
いつかあなたが 
あなたの小さい子や 
子供の頃のあなたを 
抱きしめる時の糧になるだろう。
 
伝え方が不器用だっただけの
本当はそこにあった愛を  
魂が思い出せるように。
 
伝わりますように。
 

2年前の夕陽

 

どうか上手くいきますように

 
どうかうまく行くように 
辛い事が少ないように 
痛い事が少ないように。
 

だけど、どうしようもない時 
どうしてもしんどい時 
私の言える事は 
あなたは1人じゃないよ 
っていう事だけだ。
 
 
大丈夫じゃない時こそ  
1人で頑張ってしまう時こそ  
 
 
誰も助けてくれないと思う時こそ
 
   
誰かと必ず
繋がっている事を感じられますように。
 
  
誰かは
家族じゃなくても良いし
 

この世の人間じゃなくても良いよ。
 
 
誰でも
何でも良いんだよね。
 
 
感じられる何かがあるのなら…

「人間ごっこ」オヤスミのススメ

人間をやってる(つもり)というだけで、すごい重労働なので 
すべての人に 
たまに「人間ごっこ」を 
おやすみする事をお勧めしたい。
   
 

1日に1回は無に戻りたい。
 

大体の人が 
心のあちこちに傷だらけなので、 
傷ついてるから仕方ないよね 
って思うのは
思考停止に近いのかもしれない…
  

もう 
みんなみんな
傷だらけなのは大前提で、 
  

それでも 
どれだけ愛に手を伸ばせるか? 
どれだけ愛で居られるか? 
どれだけ 
自分が愛そのものだって事を 
思い出せるか?だ。

見たくないものと一緒に居るよ

 

見たくないモノから 
目をそらそうとすれば 
一生、見ないフリをしたまま 
この肉体を終える事も出来るだろう。
 
まっすぐ見つめるのは 
あまりにも痛くて 
惨めで 
情けなくて  

「都合の悪いモノは私の中にはアリマセン」
と 
思い込んだまま 
今回の肉体を終える人もいるだろう。
 
 
だけど私はもう諦める。
 
見たくないモノと共に居てみるよ。
  

居心地の悪い 
都合の悪い 
認めたくない 
情けなくて狡い私の一部分と 
 
 
私にも隠されていた私を
 
わざわざ探して  
 
見なくても良いのに 
(そして、出来れば見たくないのが人情なのに)
ジーっと見つめて…
 
一緒に過ごしてみるよ。
 
 
そうしたらいつか
 
私にも隠されていた私が 
 
思いの外、悪いヤツじゃなくて
 
愛の輝きだった事を思い出すだろう。 
 

ひろがっていこう

いつも無意識のうちに自分を守ろうとしている。
それは勿論悪いことではないけど 
あんまり良いことでもないのかもしれない。
 
オープンに 
オープンに 
シェアして
ひろげて 
 
 
恥ずかしいとか 
大して価値がないかもしれないとか 
自意識過剰は放置しちゃって
  
 
オープンにしていく。
 

その結果 
必要としてくれる人に
きちんとつながることの方が 
大切かもしれない。

 
自分を守ろうとする事よりも 
守らなくても大丈夫なんだと知ることの方が 
 
 
私を強くしなやかにさせるのかもしれない。

すぐに忘れてしまうから

私たちはすぐに忘れてしまう
 
 
自分がどれほど尊い存在か
どれほど細胞のひとつひとつが愛で組成されているか
 
自らが塞いでしまわないだけで
どれほどの光を放っているか
 
ただそこに居るだけで
あなたがあなたで居るだけで 
エゴの作り出す
恐れや怒りや不安に惑わされないで
ただ愛で居るだけで 
 
どれほど尊い仕事をしているのか
 

いつもは出来ないけど、出来ない時こそ必要な時

いつも、いつも、 
自分のすべてをゆるして、 
受け入れて、慈しんで、愛して、 
そうありたいと思う。 

それが出来たら周りの人にも優しくなれるから。
 
でも同時に、そう出来ない時の、 
愚痴っぽい、僻みっぽい、 
ネガティヴ思考で不安な自分には、 
なおのこと…より一層、思いやりと愛が必要だ。
 
完璧主義も別に悪い事じゃないし、 
ベストを尽くしたい、 
努力家なのも尊いものだし、 
 
だけどそれが「私は出来た(私は頑張った)んだからお前も頑張れ(甘えるんじゃねぇ!」 
という攻撃に転じてしまう時には要注意。
 
要注意というのは 
 
絶えず自分を見張って 
悪い事(攻撃)したら罰しろという意味じゃないよ。 
 
むしろ(攻撃したくなったら)、あぁ、ここまで我慢させちゃってたんだね、 
無理させちゃってたんだね、ごめんね、 
って自分に言ってあげる時。 
 
優しい世界に還っておいで。 
 
キツイ時は助け合おう。 
 
 
いつも完璧じゃなくて良い。
 

誰かを大切に思うこと

 

自分より大事だなと思う存在
そんな生命体に出会う事は 
人生の最大の喜びであり
同時に不安でもある。
 
この子はこの先も健康でいてくれるだろうか
勉強は大丈夫だろうか
なるべくずっと幸福が続くだろうか
傷ついた時も立ち上がれるだろうか
その怖さを本当の意味で乗り越えていく為には 
 
一生懸命に
子どもの歩く道を舗装していくことではなくて
はい
やっぱりここでも
「私は大丈夫」
を耕して行くしかないんですよね。
 
傷ついても大丈夫 
 
幸せと不幸があっても大丈夫
 
怪我や病気をする事があっても大丈夫
 
勉強出来ても出来なくても大丈夫
 
何があっても大丈夫
 
私の中に大丈夫を耕して 
その結果
他の誰かの内側にも 
「大丈夫」を映し出す事が出来るようになる。